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mastodon向けのシェアボタンを入れてみる

mastodon向けのシェアボタンがでてきたので使ってみたくなりました。いやーブログにjsでこの手のウィジェットを追加するのって何年ぶりだろうか。 https://blog.3qe.us/entry/2023/01/26/220631 ということで、長いことここのテーマに手を入れてなかったんだけど久々にこの記事を見つつ編集。 https://www.japaneo.co/2018/11/blogger-sns-share-buttons.html とりあえず動いてるっぽいので満足した。

「アウトサイダー」アートとは呼ぼれるものの、という下書き

「 中央」なんてのはそれほど確かなものではないということ、そういった場で何が意味をもつのか、という話をしようと思う。 私たちは生来からして非集権的であり、その中で価値その他の交換・集積所が様々な要請に応じて発生し、各々が中央と称されるだけである(東北・北海道民を無抵抗でストロー効果できる東京民は「中央が存在し得る」と勘違いしがちであるが、それはそれとして。) 私達の棲み分けの結果として、私達の今の住処がある。住処を分かつ垣根を越えたとして垣根の向こうの人そのものにはなれない。垣根を越えようとする意欲・情熱そのものに意味があり、垣根の向こうの人になること・なれなかったこと自体には意味がない。歩み寄ることそのものと言い換えても良い。 オンラインにより物理的トポロジーを超えたコミュニケーションが可能となったことで「すべての人間を平場に集め、コミュニケーションを誘発させるアーキテクチャ(環境型権力)により、人類は相互理解に至る」という実験がTwitterという形で実装されたが、この実験は「万人の万人に対する闘争」という形で失敗に終わった。 従来、身体の安全などの理由で棲み分け・ゾーニングされてきたものを、TPOの区別なしにまくし立てて「オンラインでは何でも平場にあるのだから(オンラインで主張されない=この世に存在しない)」と正当化し、ハレーションを起こすことを言論の自由のための戦いと称する向きがあるが、たかが物理障壁による棲み分けを超えた程度の話でオンラインを持ち上げて現実を劣後視してよいのは精々が2010年代半ばまでだ。 彼らが夢を見るインターネットでさえも常にどこかが壊れながら(自律システム(AS)単位でつねにどこかが故障しつつも)存続しているのであり、常につながっていると言うのは幻想である。同じく、私たちは自らの要求に応じて内向きの話と外向きの繋がりを使い分ける。その中で、人々の無理解を慰撫し分断を広げる表現ほどたやすく換金される。 一方で、歩み寄り、外向きのつながりを実りある物にするには追加の情熱を要する。オンラインと呼ぶ平場に何でも載せた・カタログや検索結果という目録を作ったというだけではあまりに表層的にすぎず、垣根を超えた気になっているだけという形で人を慰撫し、無理解を広げていく。感想や気持ちを持って垣根を越えようとする意欲・情熱そのものがあとに残る文化を紡ぐの