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wallの重力

なぜ私達はしょぼくれた場末の日記サイトではなく、SNSに書きたがるのか(そしてそれはDiscordではないのか)。 そういう話を自分用のチラ裏subredditに寝かせてたので、もうそろそろ貼る。 とりあえず " happiness is only real when shared " を前提に。 リアクション目当てであれ、記事ではなく意図が「共有」されて意味を持つと言うこと そこに書く理由といえば、端的には「いいね」がもらえるから、であるよね。リアクションがほしい、リアクションの循環によって成立する「場」がほしいのであって、フローvsストック論の延長線上にあるCMSそのものがほしいのではないのだ。 コミュニティにおけるリアクションの場は、端的にはグループチャットであるはず。なぜチャット以外にもリアクションの場を求めるのか。話題にはそれぞれに応じた流量というものがあるからである。流量のあるトピックは、チャット上でその場でやり取りが発生し無事に「役割」を果たすか、または流量に応じて専用の部屋が作られていく。 流量がない(が、ゼロではない)トピックは、チャットでは話しにくいか、そもそもチャットには書き込まれない。SNSで発明されたウォールは、そういったトピックにもリアクションの場を与える選択肢として受容され、人々はそこに思いの丈や、写真、ただの日記などを流すのだ。 その(「場」への依存症じみた)営みに必要なソフトウェアは、Web日記でもなく、wikiやグループウェア、ディスカッションフォーラム、メーリングリスト、ブログとそのコメント欄でもなく、ソーシャルコミュニティのウォールなのだ。 共有され難い意図が行き場を失いがちであること todo: 「トピックのモノポリー」が起こるアーキテクチャと、そこからの逃避について書く このブログによる共有の可能性、もしくは共有を意図せずとも文章が書かれること todo: このブログが共有から遠い場所である皮肉 そして幾ばくかはオンプレで賄ってでもwallに戻る todo: Humhub語り、希望論で締める